第三十二章 医家の見たる神癒

柘植不知人

京都佐伯病院長 佐伯理一郎 誌

私は柘植つげ先生を以て世にも比類れなる聖霊に満たされたる方であると信ずる。その信ずるに至りたる源は全く神癒についての驚くべき御行みわざであるから、ここに私の実見したる最も驚くべきものを少しく挙げてあかしといたしたいのです。

(一)不眠症 大正十一年八月私の最も愛する親戚の一男子だんし(五十四歳)数ヶ月不眠症にて苦しみ京阪神けいはんしんは申すに及ばず東京迄も行ってあらゆる専門大医たいいに治療を受けしもがんとして更に全癒のちょうなく日々おもり行くのみにてこのままに打ち捨ておきなば精神に異常をきたすに相違ないから、私も気が気でなく思い煩ううち、大阪に於いてらい病が癒されたという話を聞き半信半疑ながらかくその柘植つげ先生とやらに一度祈って戴きたいと思い、本人を伴い有馬ありまの修養会に行きただの一度祈って戴きましたところ、驚くべし、それきりあの頑固なる不眠症が全く癒され其のより高鼾たかいびきにて数時間安眠する様になり、今に健康にして幸福なる生活を続けております。

この事ありて以来私の神癒に関する信仰は判然はんぜんとなり、人々にも勧むる事をるに至りました。

(二)肝臓悪性腫瘍 これも私の最も愛する親戚の一男子だんし(八十一歳)数ヶ月前より肝臓部に固き腫瘍を発し食欲も衰え、血色もすぐれず、幸い東京の事なればあらゆる専門の名医に診察を受けしも其の診断一致せず。或る人は癌ならんと言い或る人は悪性の腫瘍には相違なきも判然たる診断つかずと言い、にもかくにも老人の悪性腫瘍にてとても永くは持てまいとの事を聴き、早速柘植つげ先生の事を申してり一日も早く祈って戴かれよとすすめしところ、親類も早速その通り信じて柘植つげ先生に祈りを願いしところ、これも一度の祈りにて本人が其の座にて直ちに癒されたりと言い表したるにより、親戚の者ら局部をけんせしに驚くべし、その腫瘍が全く形を見せず、殆ど瞬間に消散して仕舞った。余りの不思議さに、初めにこれを診察せし医師達に念のために診察してもらいしところ、いづれも異口いく同音どうおんに腫瘍が全く消散せし事を証明し、(なかにて一の外科医は余りの不思議さにあれは胆嚢たんのうにガスでもたまり、それが精神感動により一何処どこかへ駆逐せられたのではないかとの想像をなした。)その後一切医者にもかからず矍鑠かくしゃくとして米寿べいじゅを待ち望み喜びおれり。

(三)眼中がんちゅうガラス片竄入ざんにゅう症 私の六男(十四歳)物理学復習のためガラス管に水を入れ、火に熱してガラスの膨脹力を試みんとせし際、そのガラス片左の眼中がんちゅうに飛び入り、深く前房ぜんぼうちゅうに在り、肉眼にてく之を見ることを。直ちに京都府立医科大学の増田ますだ眼科部長に摘出法を頼みしも容易に目的を達することあたわず。その後三四日間毎日試みられしも遂に摘出することあたわず。しかるに少しく読書する時は直ちに疼痛とうつうを感じ、つ充血も加わって、涙液るいえき流れで勉学することあたわず。もし深く切って手術せば摘出することを得んもありては交感性眼炎がんえんを起こして、他眼たがんをもあわせて失明に陥るの恐れあり。故に主治医も躊躇して如何にせんと困りおる際、幸いにも柘植つげ先生の入洛にゅうらくあり、よって直ちに祈りを願いしに驚くべし、さしもの難症も立ちどころにえ、その後今に至るも異物はなお眼中に残りおるも病気はすっかり癒され、眼について何も苦痛を訴えた事はありません。

(四)子宮筋腫(出血) 三十九歳の既婚婦小さき筋腫きんしゅありて出血はなはだし。如何なる治療も之をとどむる事あたわず。しかるにただ一度柘植つげ先生の祈りを願い爾来じらい一切出血せず、このるいの患者は他にも多くあり。

(五)更年期出血五十五歳の多産婦。更年期となり、出血多くして医治いじ如何いかんともすることあたわざるもの祈りにより止血、之また再発せず。

(六)癌種

(イ)乳癌 五十歳の経産婦大正十四年五月初めより肩凝りを感じ、乳房にゅうぼうに異常あるを認め、一ヶ月の後、京都府立医科大学病院に行き宇野うの博士の診察を受けたところ、乳癌との診断にて即時に入院。翌日手術を受け、左乳房にゅうぼうを始め両腋下腺りょうえきかせん並びに頸腺けいせんと合わせて六個の腫瘍を切除せられ、経過も善くて十二日目に退院せしがだ内部の水脉腺すいえいせんに転移があるとの診断にて退院後も引き続きレントゲン治療に通い、やや快く感じおりしも、八月二十日に至り再び肩凝りを感じ、即日同病院の診断を受けしに矢張やはり癌の所為しょいとの事にて頸腺けいせんを多数摘出せられた。それよりは深部にて到底外部より手の付け様なしとの見込みにてラジウム治療を施される事となり、一度に四時間づつ四回施されましたところ、それにても快方に向かわぬのみか之がために大いに火傷かしょうしたり。最後に九月二十二日第三回目の手術を施さんとて頸腺けいせんを深く摘出せられんとせしところ、手術中衰弱のため卒倒し、ために中途にしてめられたり。

ラジウムの火傷かしょうは其の後ますます増悪ぞうあくし如何ともせんすべなかりしかばむしろ死したるほうまさるらんと思うことも屡々しばしばなりし折柄おりがら柘植つげ先生の聖会あることを聞き十四年の十月二日を初日として毎日出席せしに、第三日目にちめの神癒会にて確かに癒され、それよりさしもの大病も日に日にくなり、数日にしてほとんど元の健康に復し、爾来じらい一ヵ年半余ここに再発のきざしもなく愉快に感謝のうちに日を送りつつあり。

(ロ)子宮癌 三十八歳の既婚婦、大正十年神戸に於いて英医マンロー氏により、末期の子宮癌と診断せられ、最早もはや手術の時期もおくれたりとの申し渡しを受け、悔しき日を送る内、はからず柘植つげ先生の神癒の話を聴き驚きて先生に祈りを願いしところ、りょう三回にしてかる難症もたちまち癒され、爾来じらい再発せず。大正十五年小国おぐに院長と共に診察せしところ、ポルチオに些少さしょう瘢痕はんこんのこせしのみにて全快し居たり。

(ハ)子宮癌 三十六歳の経産婦、膣部ちつぶに飜花状の癌腫を発し、姫路小国おぐに国手こくしゅの診察治療(ラジウム)を数回受けたる後、柘植つげ先生の祈りを願う。数週にして全快す。数週後小国おぐに国手こくしゅと立ち会い診察せしに少しも其の痕跡こんせきだになきまで全快せられたり。

(ニ)胃癌 五十二歳の男子(先生御自身)大正十四年十一月初めて黄疸おうだんを発せられたので気が付き、密かに御容体をうけたまわるに消化不良、食欲欠損とうの症候は余程よほど前より之ありたりとの事なり。大正十年夏の始めて先生に御逢おあい申せし時より先生の顔色はカッケキシー(悪液質あくえきしつ)なりと信じたれば、胃癌も恐らく其の以前より既にざしおりしならん。一度診察させて頂きたいとは久しき以前よりの願いなりしもそれを申し上げるのも失礼と存じ、一じつ送りにそのままなし居たりしが、大正十五年二月京都聖会の時に至りては其の苦しみを見るに忍びず、一大決心を以て診察させて頂くよう願いしところ、案外容易たやす聞き届け下され、初めておん腹部を診察せしところ、驚くべし、こぶしよりも大いなる腫瘍固く胃部より肝臓部にかけ癒着し居り、動かすことも出来ず。これだけになるには疑いもなく数年かかりたるならん。ビックリして余りの事に夢の如き心地いたし、容易に信ぜられぬ迄に思いたれば念のため長男義男よしお(三十二歳)にも診察せしめて頂きしところ、同人も同様の診断にてただ驚くばかりなりし。当時の最大苦痛は背部はいぶから腰部ようぶにかけての疼痛とうつうなりしがそれも一非常に深き信仰にお這入はいりなされ、俄然がぜんおん癒され遊ばされ、その後はさしもの疼痛とうつうも全くその跡を絶つに至れり。それより御帰京、続いて熱海あたみに御静養中同年三月十日聖霊の驚くべき働きにより突然として全くおん癒され遊ばされしむね御通知あり。同月どうげつ二十八日熱海あたみに行き拝診はいしんせしに胃部いぶの腫瘍半分に減じ居り加うるに頚部けいぶれ(メタスターゼ)さえも同じ程度に減少し居りただ驚くばかりなり。同年八月下旬、再び熱海あたみに行き拝診はいしんするに頚部けいぶのメタスターゼはほとんど消え失せ胃部いぶの腫瘍も触れがたき迄に癒され遊ばされ、驚き恐れてただ感謝あるのみ。も医業を営みてよりここに四十六年有余ゆうよおびただしき癌腫に接したれどもいまかつくの如き例を知らず、よって種々しゅじゅの書籍を集め調べても似寄によりたる報告なく更に心やすき内科、外科、婦人科とうの大家につき其の実験例を聴きただすも誰ありて類似の実験なし、の次男の如きもすぐる五年間京都帝大、大学院に入り病理学教室に於いてもっぱら癌腫肉腫の如き悪性腫瘍について研究し居るもいまかつくの如き驚くべき実験例を見出すことあたわず、真に驚き居る次第です。(大正十五年十月誌)

(終)