自序

柘植不知人

これまで私の証を公にせんことを内外人より一再ならず勧められたが如何せん、多忙でその時が得られなかった。しかるに此度こたび病気静養を機としてその証の大要を記して刊行するに至ったことは誠に感謝である。されど神が私の上になし給うた御行は尋常普通の事にあらず、母の胎を出でしより今日に至る五十有余年の生涯は全く奇跡と不思議にてち、一つとして神の恩寵ならざるはなく、これらを詳細に述べんにはなお時足らず、ただその内の著しき神の御行について証したるに過ぎない。

幼少より家貧しくして所有辛酸を嘗め、多難不幸、波瀾曲折、浮沈盛衰窮りなく、もはや生きる望みの尽き果てたる時、キリストに来たりて救われ、死より生に移り、全く別世界のものとせられた。その結果、凡てのことは神の旨によりて召されたる神を愛する者の為にことごとく働いて益をなす、と云う御言は私の生涯の証となり、前の困苦はやがて人を救う活ける知識となり、同情の泉となった。故に如何なる境遇のもとにある者もキリストに来たりて全き解決を得、凡てのものことごとく働きて益とならざる者のないことを信ずるものである。

更に救われて後自分の満足や喜悦を求めるとか、何ものかになって用いられたいと云う願望ではなく、私の衷には飢え渇く如く義を求めて止まない燃ゆるが如き渇きがあった。この切なる欲求は地にける何ものを以てしても満たさること能わず、活けるキリスト御自身に来たり、ペンテコステの霊を受くるまでは、止むことの出来なかったものであった。遂に其の霊に満たされ、キリストと全く一つにせられ、キリストの聖旨のならんことのみを望むものとせられた、

地上にいました主御自ら、又弟子達を通して病者を癒し給うたそのままの御行を現在に於いて拝するに至ったことはこれまた感謝に堪えざることである。

更に崇高なる観念は神を愛し、神の為に生きる生涯である。神を愛することは即ち神の愛し給うものを愛することにして、主イエスのペテロに語り給うた如く、我を愛するならば我が羊をえとの真理である。私の生涯は生きるにも死ぬるにも失われたる魂を尋ね、又羊をうために、全生涯を傾注するの外に道なきに至った。しこうしてその生涯こそ、神と共に働き、神と共に交わる最高の生涯にして、世の一切より離れ、神を全部として受け入れ、ここに満足と感謝とを以て世を過ごすに至った。

何人といえども自己中心の生涯より神中心の生涯に移るまでは到底満足し能わざる切なる飢渇の絶えざることは事実である。又人の貴賤はこの世の所有物の如何によるものに非ず、神の為に生きる生活のみ、初めて真の平安と満足を見出すものである。

故に本書を味わう諸兄姉はその最高の目的に達せられんこと著者の衷心よりの願いと切なる祈りである。本書は何分匇卒そうそつの間に出来上がったもので、人間の側よりすれば甚だ稚拙なることを免れないが、読者その意のある所を諒せられんことを。

又本書に記したる事は私の上になし給える神の御行の証であって、ペンテコステに至る道程及び、之を受けて後の歩みについてなお記したき事多くあれど、主許し給わば後日ペンテコステの指導書として一書を公に致したく願っている。又今日まで共にいまして栄光を顕し給うた主は、私をしてなお地上に留めて用い給わば栄光の事跡の続編を頒つ時あらんことを希っている。

願わくは主本書を祝して、多くの人々に恩恵を注ぎ、あまねくリバイバルを起こし給わんことを。

熱海にて

大正十五年九月七日 柘植不知人